2021-10-11 第205回国会 衆議院 本会議 第3号
多くの戦友が戦地に倒れたが自分は奇跡的に復員出来お前が生まれた、だから腕白でもいい、どんな辛い時でもキリッとして生きろ、が父の口癖でした。そのせいではないが硬く真直ぐなレールの途を選び機関車のハンドルを握ったり、労組の猛者諸君と激しく渉り合いながら国鉄の近代化再建、JRの誕生へと全力で突走りました。
多くの戦友が戦地に倒れたが自分は奇跡的に復員出来お前が生まれた、だから腕白でもいい、どんな辛い時でもキリッとして生きろ、が父の口癖でした。そのせいではないが硬く真直ぐなレールの途を選び機関車のハンドルを握ったり、労組の猛者諸君と激しく渉り合いながら国鉄の近代化再建、JRの誕生へと全力で突走りました。
戦争からの復員後、大好きな考古学のため、群馬から東京に通って大学の先生に教えを請うて、そして学問的な素養を養い高め、この遺跡の発掘にその生涯をささげております。先ほど大臣おっしゃっていただいた、いわゆる在野の考古学者ということでございます。しかしながら、我が国における旧石器時代の存在を証明する相沢忠洋氏の功績というものは大変なものであるというふうに思っています。
私の父は、太平洋戦争で近衛師団から南方戦線に転出し、昭和二十一年春に復員しました。父は、漁村の次三男であり、応召前は北洋漁業に従事しており、漁業に対しての強い意欲を持っておりました。漁協ができ、組合に参加した当時の喜びを幾度となく聞かされました。あの当時の喜びと同じような、全国の漁業者に喜びが沸き上がるような漁業法の改定を願っています。
戦争に行き、復員してきて、とにかく考古学が大好きで、サラリーマンになると好きな考古学の研究ができないから、納豆の行商などをしながら、一生懸命いろいろな遺跡の発掘に尽力をした。自分は学問的な知識がないから、群馬から東京まで自転車で百二十キロ、往復しながら、学問的な知識を大学の先生に教えてもらいながら遺跡の発掘に生涯をささげたという人で、その方がこの岩宿遺跡を発見した。
そして、今日までに復員や引き揚げ時に送還した遺骨を含めて日本に帰還した遺骨は、約百二十七万柱とのことでございます。このうち、遺骨収集帰還事業による収容遺骨数は約三十四万柱。
四ページ目でございますけれども、これらの所蔵の史料の経緯でございますけれども、昭和三十一年、当時復員業務を担当していた、復員省もございましたけれども、厚生省から旧帝国陸海軍の記録というものを約一万件ほど移管されました。そして、一九四五年、日本の降伏に際して占領軍に押収されて、その後米国国務省から返還された文書、これが四万件ほどございます。
戦後、もともとの職員が帰還したことに加えて、治安対策とか失業対策の観点から、国策によって、旧満州鉄道の社員、満鉄の社員や復員兵を大量採用するというような状況になりました。それによって、昭和十二年に二十四万六千人だった職員数は、十年後、昭和二十二年には六十一万人に達しております。十年間で二・五倍に急拡大をしているという現状があります。
○初鹿委員 これは、昨年の十一月十一日の日に、米国のベテランズデーという復員軍人の日に合わせて反戦イラク帰還兵の会が発表した、復員軍人における自殺者の数だそうです。一日に二十二人。戦死者が大体六千八百人ぐらいだというふうに聞いておりますが、八千人ぐらいの方が自殺をされているということです。
ほども言いましたように、一般の有権者と話をしているときに、例えば最初のうちは、尖閣の問題、東シナ海の問題、または専門的なことを知っている人は南シナ海の問題を捉えて、中国はけしからぬという声が非常に多いわけですけれども、日中戦争、十五年戦争と言われますけれども、この間に中国の人たちでどれぐらいの犠牲者が出たのかという話と、この後言います、徳をもって恨みに報いよという有名な蒋介石演説も一つの要因として、復員
軍人軍属の復員については、基本的に同宣言に基づいて実施されたと理解をしております。 そして、中国からの引き揚げの実態については、引揚援護庁が昭和二十五年に作成した資料には、二百五十万の軍民の引き揚げはわずか一年数カ月をもって極めてスムーズに完了し、しかも、この地区における人員の損喪率は五%にすぎなかったと記述がある、こうしたことを承知しております。
その中で、終戦当時の日本の復員、引き揚げにおいて、一方では、ソ連が八月九日という終戦間際に攻め込んできて、五十七万五千人というシベリア抑留者を出したのに比べて、中国本土においては、華北、華中、華南、ここからの引き揚げは、十カ月から一年数カ月において極めてスムーズに行われたというふうに言われております。
なお、政府の収集事業以外に、復員あるいは引揚げの際に戦友等により持ち帰られた御遺骨もございます。これらは、当時、中部太平洋地域という単位で整理されまして、島ごとの数字はございませんけれども、中部太平洋全体で一万三千二百七十柱の御遺骨が持ち帰られているというところでございます。
○政府参考人(谷内繁君) 従来からこういった、先ほど申し上げましたように、復員の方、戦友等が持ち帰られた御遺骨が中部太平洋地域全体で一万三千二百七十柱というくくりをしておりましたので、お求めがあるときにはこういった資料を出しておりますけれども、議員御指摘のように、もう少し細部の中部太平洋の島ごとの資料を出せということでございましたら、適切に対応させていただきたいと思っております。
その後、昭和二十三年に、旧陸海軍省の後身であります復員局を吸収をいたしまして引揚援護庁と一旦なりました。集団引揚げの完了とともに、昭和二十九年、内局たる引揚援護局になったわけでございます。 また、引揚援護が一段落してくるとともに、戦傷病者や戦没者に対する補償の要望が強くなりました。
○国務大臣(石破茂君) 御通告がなかったのでお答えがしにくいところでありますが、前段のお話で鑑みれば、戦後、急に子供が増えたのは、やっぱり復員された方々がそれぞれ多かったということだろうと思います。そして、焦土と化した国土をいかにして再生させるかということがあって、それはもう社会も不安でした。
アメリカには昔、GIビルといって、第二次大戦が終わって大量に復員軍人が帰ってきたときに、復員兵擁護法案といって、大学に進学するための奨学金を元兵士に供給する、そういうプログラムがありました。結果的に、戦後、アメリカの大学教育が爆発的に普及するきっかけになりました。高度な人材の育成にもつながりました。
旧厚生省におきましては、復員業務の一環としまして、死亡者の記録をとることにしておったわけでございますけれども、個々の死亡者の具体的な死因、例えば、銃創が原因でお亡くなりになった、あるいはマラリア等に罹患をされてしまった等々、個別の、死亡された方の具体的な死因についてまでは記録をとっていないということでございまして、今申し上げたような、銃創であるとか戦病による死亡だとか、そういうことは定性的にはわかりますけれども
○国務大臣(谷垣禎一君) 今、真山委員から、ぴったりしたスーツを着ている中でだぶだぶのというお話がありましたが、委員のお話を伺いながら、むしろ復員兵の服装で現れたのではないかというような感じも持ちました。 それで、罹災都市法は昭和二十一年に制定されてから全面的な見直しがされなかったと。今、過去三十回と。
例えば、第一復員省の資料、経済安定本部の資料。でも、これは見ることはできても資料収集する予算がないわけですよ。 また、総務省は、その予算で戦災資料の展示会というのを全国各地で行っているそうなんですけれども、結構地元の新聞社が貴重な資料を持っていることが多いんだけれども、これを借り受けるにはお金が掛かるので借り受けることもできないと。
私は、小学校も中学校も級長をやったぐらいで、進学をしたかったわけですが、父親が軍隊から復員してきたときに結核にかかっていて、貧困状態になっておりましたから、進学を諦めて、辛うじて、教師から勧められて通信教育を受けて、山高を卒業するというふうな生活をしました。また、生活保護の医療扶助を受けて結核療養して治癒し、今日があるというふうに思っております。
私はもう戦争で三回死んでいるのを助かっているから、まあ復員してあのやみ市からスタートしたんですけど、もうこの年になって、死ぬときにはあなた紙切れ一枚持っていけないのに、自分の損得勘定とか会社の損得勘定とか業界の損得勘定で物を言う、こんな悲しいことはもうやりたくない。
それは、復員軍人の雇用が問題になったとき、そのときに、FRBとしてその問題を含めた表現で入れた。 日銀も雇用は最大限に見ていると思っております。現在の日銀法の中には、日銀の金融政策による物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資するということを理念としておりますので、この国民経済の健全な発展の中には、当然ながら雇用の安定というものが十二分に意識されていると考えております。
つまり、戦後の二十七年、昭和の二十七年のときに衆参でこの決議をして、当時はもちろん軍がこの回収義務があったわけですけれども、軍が解体されるわけですから、厚生省の方に復員局として委託を受けて、厚生労働省の方の細部の組織規則の中にこの遺骨を収集しなさいという、外事室の任務として入っているだけで、やっぱりそれはおかしいと思うんですね。